鷹匠 ヴェロニカ・ホーキング
ある朝私は透明人間になった
私はある朝、透明人間になった
私は今日も、いつも通りの朝を迎えた。窓から太陽の光が差し込んできてとても眩しい、目を軽く擦りながら横たわった重い身体をゆっくりと起こした。暖かな泥に浸かっているかのような、寝惚けた頭もようやく覚めて、くっついてしまいそうな程細められた目を開いた。そしてここで私はある異変に気付いた。
「…私の、身体が」
私の手は、本来あるべき質量を持たずに、壁の白さが透けて見えていた。このときの私は、慌てすぎて逆に冷静になっていた。壁に掛けられた姿見の前に移動し、恐る恐る鏡を覗き込んでみた。
…そこに映ったのは、白い壁だけだった。そう、壁だけ…私の姿は映っていなかった。私はどこか不気味すぎるくらいに冴えた頭で、自身が「透明人間になった」という事実を認知した。
事実を知ったところで、私にはこの状況をどうにかする術を持っていなかった。透明になった理由も、全くと言っていいほど心当たりがない。私はよく平坦だと言われるが、私もそう思っている。こんな状況の中でも、誰かの物語を遠くから見ているみたいに、他人事みたいに木製のドアをすり抜けふらふらと家の外へ出て行った。
今日の空はどこか不安げだ。まるでこの出来事を予期していたかのように暗く、落ち着かないものだった。私は空を見上げ、多くの人々が往き交いする道の端を通り、特に行く宛も目的もなく気ままに歩き始めた。しかし上を見て歩いていたからか、私は前から歩いて来た人に気付かなかった。思わずぶつかってしまう、と思い「すいません」と謝ろうとした。しかし謝ろうと開いた口からは何も言葉は零れなかった。謝る必要がなかったから。そう、ぶつかると思った瞬間、その人は私の身体を通り抜けてしまったから。
私ははっと気付く。そうだ、今の私は透明なんだ。その瞬間、昔誰だったかに言われた言葉が脳裏を過ぎる。
「いてもいなくても変わらない」
そのときの私は、その通りだとただの無感動の同意しかなかった。だがどうだ、今の私は。本当に、いてもいなくても変わらないじゃないか。私は透明になったのではない。
元々、透明だったのだ。
私はいてもいなくても気付かれない、別にそれでもいいと、気付いてもらう努力を何もしなかった。けれど何故だろう、気付いてもらえないのが当たり前だったのに、こんなにも冷たい。
私は思わず、近くを通りかかった人の肩に手をかけようとした。けれど触れようと伸ばした手は、簡単にすり抜ける。「あの」大きな声で話しかけたつもりが、誰の耳にも私の声は届いていない。
人々はざわめきの中、道を進む。当たり前みたいにこうして世界が回っている。それなのに、私だけがそこにいない。
頬を何かが伝う感触がして、私は自分が泣いているのだと気付いた。それでも、零れた涙は、染みすら作らなかった。私は自分が思っていたそれ以上に、誰にも気付いてもらえていなかったと今初めて気付いた。私という個人は、誰の目にも初めから映っておらず、誰の世界にも存在していなかったのだ。私は透明になってさえも、いてもいなくても何も変わらなかった。
「誰か」
誰も振り向きはしない。誰も歩みを止めはしない。
「誰か、気付いて」
私の声は、吹き抜けていった風にさえ掻き消えた。
それから、ただ風の赴くままに、空気の私は街中を彷徨った。
私は、本当は存在していなかったのかもしれない。悲しみのなか、ただ居場所を、私の存在する世界を探してふらふらと宛て所なく歩き回った。
それから私はどうしていたのか覚えていない。気が付いたらまた朝で、私の腕は透けていた。
こうして私のいない一日は、何も変わらないまま終わった。誰も私の存在に気付かないまま。
そしてまた、私のいない一日が始まる。
お題「椿の終わり」
僕は、あの日を一生忘れない。
確か3月の上旬のことだっただろうか。雪は溶け、時折冷たい風が吹き付けるものの暖かい日光が燦々と降り注いでいた。春の始まりに生き物たちは皆歓喜し、芽吹き、地から這い出てきた。
僕はまた学校が始まってしまうなと、別れと新しい出会いを憂い、1人閉め切った自室でパソコンに向き合っていた。
そんな春休みのある日のこと、僕は財布とスマホだけをジーンズのポケットに入れ外を歩いていた。使っていた赤外線マウスの電池が切れたのだ。家で換えの電池を探したが見つからなかったので、仕方なくこうして買いに来ていた。
吹き付ける冷たい風の中、マフラーでもしてくれば良かったと後悔しながらコンビニに向かっていた。所々黒ずみのある、少し年季の入ったマンションの前を通りかかろうとした時、僕は何となしにふと上を見上げた。太陽の眩しさに目を細めながら、視界に入ってきたのは人影だった。屋上に立ち、腰まであるとも思える長い髪が風に揺れている。何で屋上なんかに…と不審に思いながら目線を戻そうとした時、その人影は僕の方を見た。そして微笑んだ―ように見えた。逆光のせいで顔は良く見えなかった、だから本当に微笑んでいたのかどうかは彼女しか知らない。ただ僕は、彼女が微笑んだのだと、そう感じた。
まるで時が止まってしまったかのように僕は動けなかった。
次の瞬間、呆気ないとも思えるほど簡単に、まるでテレビのドラマを見ているみたいに彼女はフェンスを飛び越えた。
あ、と思う暇もなく、重いものが地面に叩きつけられる音がした。辺りは騒然とし、悲鳴や119番に連絡をする声が響いた。僕は、しばらく屋上の虚空を見つめたまま唖然とし、恐る恐る目線を下に向けた。
赤、赤かった
思わず尻餅をついて、ただ彼女の赤を眺めていた。遠くから、サイレンの音がただ聞こえていた
それから僕がどうしたのか、よく覚えていない。警察に事情聴取された気もするが、何を話したのかもよく覚えていない。
ただあの日から、僕の脳裏にはあの赤と、微笑みだけが一生消えない焼印のようにこびりついている。
赤い椿の花が落ちたように、落ちて茶色く染み付いて土色になるように
そう、言葉で表すならまさに
落椿
お題「人間に棄てられた合成獣」
バケツを引っくり返したような、激しい雨が降り注ぐ。アスファルトを、コンクリートのビルを、無数に浴びせられる弾丸のように打ち付けた。視界が不明瞭になるほどの雨は、まるでカーテンのようだ。人影もなく、ただ雨音だけが街全体を包み込んでいた。
ビルとビルの隙間、伸びる配管と影に覆われた底に、1匹の生物がいた。凛々しい獅子の顔、立派な鷲の下半身、だらしなく垂れ下がった蛇のようなぬらぬらとした鱗の尾。そう、合成獣〈キメラ〉だ。
だが耳は欠け、羽は抜け落ち痛み、鱗は剥がれ、おびただしい血が流れてそこらを真赤な血の水溜りに染めた。息は荒く、今にも生命の灯火が消えてしまいそうだ。
彼はかつてはただの獅子であった。だが研究所に連れてこられ、麻酔をかけられ。次に目が覚めた時、彼は異形の姿になっていた。身体を切り開かれ、異なる遺伝子を組み込まれ、獅子ではなくなった彼。科学者たちは実験の成功を大いに喜び、彼を支配しようとした。しかし彼は、百獣の王の名を与えられた者。幾ら薬を打ち込んでも、その矜持を忘れることはなかった。それどころか何度も脱走を試み、科学者たちにその牙と爪を振るった。
あまりにその被害は大きく、彼は結局失敗のレッテルを押された。科学者たちな檻の中の彼に、同じように研究所で合成獣として歪められた動物たちをけしかけた。薬に侵され、かつての野生を忘れた彼らの牙が、爪が、容赦なく浴びせられた。大量の血を流し、瀕死の状態となった彼を科学者たちは人の寄り付かない、路地裏に棄てた。もう彼の傷が塞がらないことを見越してだ。
彼は幸せだろうか。色のない空でも、アスファルトの地面でも、配管とコンクリートの壁に囲まれても、排気ガス混じりの空気でも。
望んだ外に出られて。
井戸の底のような冷たさの中、彼の生命の灯火はそっと、儚く消えた。
アスファルトに雨が染み込まないように、彼は地に還ることもなく、誰かに看取られることもなく、ただ静かに彼の亡骸は横たわっていた。
Regain Happiness 第三夜
神様とか悪魔とか
【魔界の四王】
昔の話
「ねえ、ヴァン?」
「ん?何だ?」
晴れた日の昼下がり、私とヴァンとレヴァルは家に居た。いつもならヴァンは仕事の筈だけど、私が身籠ってからは気にかけて休んでくれることが増えた。
「お腹の子、どっちだと思う?」
私は自分でお腹をさする。ヴァンもそれに手を重ねて愛おしそうに見つめていた。
「そうだなあ…レヴァルが男だったから、次は女がいいなあ」
「あら、私も実は女の子なんじゃないかって思ってたのよ。」
するとお腹の子が僅かに動いた感覚がした、まるでその通りだ、とでも言うように。
「名前は、男だったらリヴァルで、女だったらディルにしよう!」
「ふふ、随分気が早いのね。」
するとレヴァルも来て私のお腹を相変わらず不思議そうに見つめている
「いいかレヴァル、お前は兄ちゃんになるんだぞ?」
「…?にーちゃん?」
「そうだ、兄ちゃんは妹や弟を守ってやらないといけないんだ。だからこの子をちゃんと守ってやるんだぞ」
「…うん、ぼく、まもるよ!だって、にーちゃんなんだもんね!」
そう言ってレヴァルもお腹を小さな手でさする。はやくでておいで、なんて呟いて。
ねえ、あなたが生まれてくることをこんなに望んでくれる人達がいるの。皆あなたを待ってるのよ。
その可愛い顔を私達に見せて、その声で私達を呼んで。
私が死ぬまで、毎年あなたの誕生日を祝おう。あなたが辛い時、私達が支えてあげる。いっぱいいっぱい、あなたを愛してあげる。そうして、大人になって、愛する人を見つけて、家族を作って………
そして、幸せになって。幸せなあなたの顔を私に見せて。そしたら私は、一番にあなたを祝ってあげるの
ふふ、もう待ちきれないな
だから、早く生まれて来てね
どこまでも愛おしい、私達のディル